映画「標的の村」

「標的の村」を見終わって、砂みたいな石コロみたいなものが、心の中でゴロゴロ、ジャリジャリした。
だって、映画というものはだいたい「THE END」があるけれど、
沖縄で起きているこの現実は解決なんてしていないから。
「新型輸送機「オスプレイ」着陸帯建設に反対し座り込んだ東村(ひがしそん)・高江の住民を国は「通行妨害」で訴えた」
(映画「標的の村」より)

デモを阻止する警察と、身体をはって抗議する沖縄県民。
どちらも、この島に共に暮らす人なのに、大きな闇の力に戦わされている現実。
映画館を出て、カフェでお茶をのむことした。
おなかもすいたし、どのもかわいたし、自分の気持ちを整理したいから。
「怒り」にも少し似ているけれど、無力感とか罪悪感とかにも似ているのかなこの感情。
一番近いのはやっぱり「哀しみ」かもしれない。
わたしは、ゲート前や高江や辺野古の現場にいって、抗議活動をしたことがない。
何人かの友だちや知り合いは、実際に座り込みなどの活動をしている。
ほんとうに尊い魂だと尊敬するし、地元の人たちにとってどんなに支えになっていることか。
人の心に怒りを浮かび上がらせ、それを利用して、善良な人々を遠くからコントロールして戦わせる。
涙一つ流さずにそれを眺めているのかな?
でも、知っているよ。自分でも気がつかないくらい深いその場所には、私たち以上に痛い傷を負っていることを。
「どこに答えがあるのかな?」と、やりきれない気持ちでロイヤルミルクティーをのむ。
持ち歩いていた「響きわたるシベリア杉」の続きをよむことにした。
主人公のアナスタシアが、神さまからきいた解決方法を、作者のウラジーミルに話す場面だ。
「彼は私がどこでその答えを見つけられるのか、探すべきなのか、それに気がつかせてくれた」
「相反するものが融合しているところ」
「(略)それは相反する考えをもった異なる人々の内にある神の粒子が、共同して初めて見出せるものなの(略)」
(アナスタシアの言葉)
「相反するものが融合しているところ」
わたしは、「2012年9月29日、強硬配備前夜。アメリカ軍普天間基地ゲート前」の光景を思い浮かべた。
そして高江のヘリパッド工事現場での攻防。
一番見るのがつらいその場所に答えがあるというのね、アナスタシア。
そうかもしれない、と思った。
答えは「離散」のなかにはみつけられない。
地球で起こってきているさまざまな問題は、「融合」するところに答えがある。
それはどのような方法で?
その答えを受け取れるように、見逃さないように、
日々を過ごしていこうと思う。